『ラディカル・オーラル・ヒストリー』
これはオーラル・ヒストリーに関する本である、といってしまうと、本書が提起する問題を、おそろしく矮小化してしまうことになるだろう。確かにここには、オーストリアのグリンジ・カントリーで、アボリジニの長老たちの歴史語りに耳を傾ける著者・保苅実がいる。
しかしそれは、インタビューを記録する行為というより、保苅自身の言い方によれば「コミュニティーに暮らす人々」が「歴史する」こと(doing history)、即ち歴史実践に触れることであった。「歴史実践は、他のさまざまな日常的実践と並存し同時進行」しており、保苅はアボリジニの日常的実践のなかで「身体的、精神的、霊的、物的、道具的に過去と関わる=結びつく行為」、「過去を呼び起こす」行為に寄り添っていく。
たとえば、グリンジのある長老はアメリカのケネディ大統領が来訪し「イギリスに対して戦争を起こし、お前たちに協力するよ」と言ったことが、彼らの土地返還要求運動の契機になった、と語るという。それは歴史表記には記されていない。またある長老は過去を語るときに、方角に忠実な砂絵を描いてドリーミング(精霊)が通る東西の「正しい道」を示し、地理上に「倫理」を刻み込む。そして「白人は北からやってきて、正しい道を切断して行った」「彼は法を犯したのだ」、キャプテン・クックはダーウィン湾に到着すると南に進行し、「大地の法である「正しい道」を破壊した」と語る。歴史年表には、クックがダーウィン湾に上陸したという記録はない。
本書を貫くのは、こうした長老たちの歴史実践を、我々は、単に歴史的事実と異なると排除するのではなく、どう受け止めたらいいのか、という問いだ。保苅は、それを「神話」であるとすることも、またケネディもキャプテン・クックも歴史語りのメタファーであるとすることも、彼らの歴史を受け止めたことにならない、と批判する。むしろそれは、研究者が語る歴史の作法のなかに、アボリジニの語る歴史を「包摂」するだけで、そのk霊験を「無毒化」する政治に他ならないという。我々は、再び「誰が歴史家なのか?」という問題に向き合わなければならない。
アボリジニの歴史実践は、地理景観のなかに刻まれた倫理的価値に従い、植民地主義の歴史を不道徳なものとして語ろうとする。
またアボリジニは、「キャプテン・クック以前」にオーストラリアに来て、「すべての愚かな考え」を生み出したイギリス人、ジャッキー・バンダマラを、「猿から生まれた」とし、ドリーミング(精霊)から発生したアボリジニと対比的に語るという。保苅はこれを、反植民地主義のなかでアボリジニが形成した「ヨーロッパ史分析」なのだと位置づけ、我々が知る「ヨーロッパ史」と対峙させる。
保苅はこうしたアボリジニの歴史実践が生み出す歴史を、我々の歴史と「接続」し「共奏」させる「歴史をめぐる「声の複数性」」を具体化しようとするのである。
巻末で保苅は、そうした彼の問いに対する、ある編集者のコメントとして、「ヨーロッパ製の「歴史」の外部」を確保することではなく、「ヨーロッパ製の「歴史」の大きさはそのままにして、「その位格を変えてしまうような理論的戦略を作り出す」ことが必要なのではないかという批判を引用している。
しかしそれは、本書執筆後二〇〇四年五月に夭逝した保苅実の課題というより、本書を手渡された我々の課題であると言わねばならない。
(御茶ノ水書房/本体二二〇〇円)